あの悪名高き小泉政権以上の「史上最強の隷米政権」と言われる現野田政権。そのアメリカ様に付いていくことが如何に危険なことであるか、簡潔に分かりやすく解説したものがあったので紹介します。アメリカ様に完全に洗脳され手なずけられた政治家や官僚たちはともかく、私たち国民は自分たちを守るためにもその危うさに早く気付き、危機に陥らないような選択が出来るよう常に心がけていかなければならないでしょう。
政治家を変えようとするのは無駄なことです。大事なことは、私たち自身が変わることだと思います。

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歴史から学ばない者は、歴史に報復される。

日本人は近現代史を学校で学ぶことがほとんどない。

これは、よく知られた事実だ。

しかし、日本人に最も影響を与えている国である米国の歴史を、ほとんど学んでいないことは、自覚していない。

米国史を知っていると思い込んでいるだけである。

「すべての人は平等に創られている。すべての人は創造主によって、一定の譲ることのできない権利を与えられている。これらの権利のなかには、生命、自由、幸福の追求の権利が含まれている」

と、トーマス・ジェファーソンは独立宣言の前文で高らかに宣言した。

その一ヶ月後、私信の中でこう書いている。

「インディアンが戦争を開始したのは遺憾だ。(中略)こんな卑劣な奴等の力を早く弱めるには、奴等の国の中心部まで戦いを推し進めるしかない。いや、そこ でやめるつもりはない。断固としてこう言ってやろう。お前らの家族がわが植民地から引き揚げるのは勝手だが、覚えておくがよい。決して二度と、もとの居留 地に帰れないばかりか、一人でもこの地に残っているかぎり、われわれは断じて最後まで追いつめて戦うであろう、と」。

以上は、小倉英敬氏が、「侵略の合州国史」の中で、富田虎男氏著「アメリカ・インディアンの歴史」から引用しているくだりである。

小倉氏は、こう記す。

「略奪者であった者たちが、正義は自分たちにあるかのように、そして犠牲者が戦争を仕掛けたかのように事実を歪曲する詭弁を弄した。

アメリカ合州国は、このような偽善と詭弁の上に、先住民の犠牲の上に建設された。

(中略)このようにアメリカ独立革命は、一面ではイギリスの重商主義的な抑圧に対する植民地人の独立と自由のための戦いであったが、一方で、その独立と自由の基礎となる土地の支配権を確立するため、そこに居住する先住民の領土を侵し、独立と自由を奪う征服戦争であった。

独立宣言の中で謳われた「すべての人」とはヨーロッパ系の住民のみをさし、先住民は黒人奴隷とともにこれには含まれていなかった」。

このような先住民に対する「浄化(虐殺)」と「排除」の徹底を通じて、広大な土地を力づくで奪い、我がものとしたら最後、所有権の正当化を厚かましくも主 張し、その結果、建国されたのが米国なのであり、その残酷さと強欲さと厚顔さは、それ以降も改まることなく、現代まで継続している。

先住民に対して、言いがかりをつけては攻撃を仕掛けてきた歴史は、今日のイラク戦争開戦の口実となんら変わらない。

また、遺伝子組み換え技術を用いて、自然界の農作物の種子をいじり、それを理由に特許や知的財産権を主張して我がものとする手口も、土地の占有と本質的には同じである。

土地はかつて富を生み出すほぼ唯一のソースだった。

土地の支配に血道を上げたのは、土地が農業生産のための基盤だったからであり、工業化以降は地下資源を確保するためでもあった。

土地が「私的所有」し尽くされた今日、フロンティアは生物資源等に移りつつある。

武器は知的財産権である。

TPPやACTAなどへの警戒を怠るわけにはいかないのは、それらによって知的財産権の保護強化がはかられ、預かり知らぬうちに、生物資源などが片っ端から囲い込まれてしまう恐れがあるからだ。

「モンサントの不自然な食べ物」のマリー監督は、それを侵略戦争と呼んではばからなかった。

現代の侵略戦争は、情報の分野でも闘われるのだ。

侵略戦争と聞くと、恐ろし気である。

が、問題は戦争そのものではない。

どんな苛烈な戦闘もいつかは終わる。

問題はその後の支配と搾取である。

日本人は「戦後」を、豊かさの歩みとして経験してきた。

が、これが冷戦の副産物だったことは、十二分には理解されていない。

冷戦の終焉とともに、帝国たる米国は、従属国に寛容さを示す必要がなくなった。

中断・休止していた搾取のプロセスが再開されたことに、我々は気づかなくてはならない。

だが、この自覚は困難なものになるだろう。

劣位にあることの自覚は、自尊心が高すぎる場合、痛みと苦しみを伴う。

また、強大な帝国と対峙する恐怖は、時に、帝国への一体化という幻想へ押しやる動因として働く。

「怖い」からこそ、「.離れる」のではなく、さらに「くっつく」。

共依存の深化。

アメリカ合衆国そのものと、全面的に同一化できないことは、誰でも理解していることだ。

冗談としてならともかく、日本は米国の51番目の州になりえない。

米国が日本人に合衆国大統領と連邦議会の選挙権を平等に与えるということはあり得ないと、少し考えればわかることだ。

同一化の対象は、<帝国>の原理である。

米国そのものにはなれないし、米国にとって代わる覇権国にもなれない(80年代のバブル期には、パックスアメリカーナの次はパックスジャポニカだ、日本が世界の覇権国になるのだ、などという夜郎自大な説を唱える評論家もいたが)。

しかし、極東に地域を限定してのミニ帝国にならなり得るのではないか。

こう気づいて俄然張り切りだす人士は少なくない。

米国の中の帝国の原理に同一化し、かつ米国とは対峙しない。

自らが外国の軍隊に占領されている現実も忘れ、自身の中に眠る、内なる帝国の甘美な幻想に耽ることができる。

むろんそれは、リアリティーを著しく欠いた帝国ごっこにしかなり得ない。

日本が、領土問題で逆上した挙句、隣国と戦争を始めたとして、それはかつての、資源獲得のための領土拡張戦争でもなく、市場獲得を狙った権益確保のための戦争でもない。

コドモじみた喧嘩がせいぜい、何の益にもならない。

どんな戦争であれ、目的があり、利害得失の計算もあるものだ。

目的も、損得勘定も、見定めぬまま突っ走るのであれば、街場のチンピラの喧嘩とさして変らない。

益にも役にも立たないどころか、その喧嘩は、徹底的に利用し尽くされ、高い代償を支払わされるだろう。

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